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zoom RSS 在米ライター林壮一の米国取材記 vol.30《マイケル・カルバハル〜スラムを生き抜いた証を....》

<<   作成日時 : 2013/03/12 22:00   >>

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〜再録ノンフィクション“REY TIME”〜

世界のトップボクサーを取材するノンフィクションライター
Soichi Hayashi Sr. の取材記事再録!


vol.30《マイケル・カルバハル〜スラムを生き抜いた証を“石の拳”に込めて》
――Michael Carbajal



 気温39℃。灼熱の太陽がコンクリートに照り付ける。まだ5月だというのに、道路からは湯気が上る程の暑さだ。

 アリゾナ州フィニックス。メジャーリーグ・ベースボール、ナショナルリーグの雄、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのホーム球場から、車で5分の場所に、ヒスパニック・ハーレムが広がっていた。

 アリゾナ州は、50州のうち6番目にヒスパニック人口の多い土地だ。そのほとんどは、ブルーカラーとして日々の暮らしに追われている。南側がメキシコとの国境となっている同州は、不法移民として強制送還される人の数が全米一である。

 低所得者向けアパートのベランダでは、上半身裸の男たちが椅子に腰掛け、ビールを楽しんでいた。その日暮らしを続ける建設労働者のグループだ。

 焼けた赤い皮膚に黒い髪。メキシコの血が流れていることが、一目で分かる。ウィークディの14時半に、気ままにビールを飲んでいるということは、今日は労働に有り付けなかったのか。

 少し車を走らせると、壊れかけの小さな家が幾つも目に止まった。どれも、朱がかかった擂れ方をしており、この土地の赤い砂を象徴している。

 エリアをドライブしたのは20分に満たなかったが、引っ切り無しにパトカーが行き来していた。ドラッグの売買や乱闘、殺傷事件などが頻繁に起こるため、巡回を怠れないのだ。

◇   ◇   ◇

 私の目的地は、9THストリートに建てられたボクシングジムだった。ジムのオーナーをマイケル・カルバハルという。元世界ジュニアフライ級チャンピオン。軽量級にして、初めて1試合のファイトマネーが100万ドルを超えた伝説のファイターである。昨年、国際ボクシング殿堂入りを果たしていた。

画像 顔を合わせるや否や、カルバハルは話した。

「暑いだろう? 無茶苦茶。それがいいんだよ。この環境で苦しい練習に耐えたら、誰にも負けないって、思えるからさ。
 オレも選手時代は、この暑さの中を走ったもんだよ。月、水、金は、5マイル。火、木、土は50ヤードの3分間ダッシュを6ラウンズやった。ロードワークは、だいたい早朝にしたけれど、時々、汗をかこうと炎天下のなかを走った。ジムワークは週に6回、16時からだった。毎日、やり終えたことで、精神的に強くなったよ」

 トレーニングウェアを脱ぎながらカルバハルは白い歯を見せた。引退から8年になるが、現役時代と体型はさほど変わらない。今でも、週に2回は、アマチュア選手のスパーリングパートナーを買って出るという。間も無く40歳になるとは思えない童顔が印象的だ。

「ちょっと待ってて。着替えてくるから」

 シャワーを浴び、白いTシャツとジーンズのハーフパンツを身に付けたカルバハルは、行きつけのメキシコ料理店に私を案内した。席に着くと彼は即、トルティーヤとサルサ、そしてテキーラを注文した。

 テキーラを口に含み、時折「オオーッ」と拳を握り締めながら、カルバハルは語った。

「殿堂メンバーに選ばれた時は、涙が零れたね。ボクシング史に自分の名前が刻まれるなんて、光栄以外に言葉が見付からなかった」

 カルバハルの左人差し指には、「9」というTATTOOが入っている。さらに、左薬指にはコブラの絵柄が彫られていた。

「オレは、このフィニックスで生まれ育った。9人きょうだいの下から2番目。祖父母がメキシコから移民して来た3世なんだ。祖父母は、牛の世話をしていたと聞いている。

 親父は測量士だった。30年くらい務めたんじゃないかな。母は専業主婦。両親は『一つの事をやり遂げる強い意志を持ちなさい。そして他者に好かれるように真っ直ぐ生きなさい』って、我々を仕付けたよ」

 とはいえ、カルバハル家は犯罪と隣り合わせの貧困地区での生活を余儀なくされる。周囲には、スペイン語しか喋れないメキシコ移民のギャンググループが何組も存した。

 父親のアレックスは、全ての子供に明確な目標を持たせたかった。ストイックに生きることこそ、トラブルに巻き込まれない最善の策だと信じたからである。

 アレックスには、アマチュアボクシングの経験があった。長男のダニーも父の影響を受け、グローブを嵌めた。13戦11勝2敗の戦績を残している。この兄と父が、家の中庭やガレージで7歳のカルバハルにボクシングの真似事をさせてみた。勿論、遊びの延長戦でである。

 だが、家族はカルバハルの才能に目を見張る。

「父と兄が教えてくれる事が、直に、そしてスムーズに出来たんだ。テレビで観るチャンピオンの動きを真似してみたら、意外と簡単だったりしてさ・・・。将来、プロボクサーになったら成功できそうだなって感じた」

 本格的にジムに通い始めたのは、13歳の時。数カ月後にアマチュアの試合に出場してみると、呆気なく勝利を飾った。

「楽しかったね。どんどん自分が強くなっていくのが分かったから。ずっとダニーがコーチをしてくれた。フィニックスはボクシングが盛んだったので、応援してくれる人も多かった」

 やがてカルバハルは、全米で指折りのアマチュア選手に成長する。1988年には星条旗を背負い、ソウル五輪に出場した。

「88年の米国代表チームは才能に溢れた選手が多く、仲も良かった。あのチームに入れたことを誇りに思っているよ」

 優勝候補の筆頭に挙げられ順調に勝ち上がったが、決勝では思わぬ判定が下り、カルバハルは金メダルを逃してしまう。

「ブルガリア代表選手に負けたんだけど、今でも自分は勝ったと思ってる。アマチュアの戦績は、102勝10敗かな? ソウルの悔しさはプロで晴らしてやる! って誓ったね」

 1989年2月24日、カルバハルはWBCミドル級タイトルマッチの前座でプロデビューする。4ラウンズを闘い、判定で勝利した。

「初戦の相手は、後に世界チャンピオンとなる選手だった。それだけに、ハードな試合だったね。こっちはデビューなのに、相手はプロ2戦目だったしさ。
 『石の拳』と呼ばれたスター王者、ロベルト・デュランが4階級制覇に挑んだ日だったから、前座の試合も注目されていたんだ。エキサイティングな一日だったなぁ。最終ラウンドに右を叩き込んでダウンを奪っての勝利だった。ハートもテクニックもスピードも、オレの方が上回っていたね」

 この日メインイベンターとして登場し、大方の予想通り4階級を制したデュランに、カルバハルは羨望の眼差しを送った。

「ディフェンスが素晴らしかった。パンチの軌跡に合わせて顔を流すんだ。非常に高い技術さ。そのスリップは真似した。デュランを見ながら、いつの日か自分も世界チャンピオンになるぞ! って思ったもんさ」

 カルバハルは僅か15戦目で夢を叶える。1990年7月、タイの人気王者、ムアンチャイ・キティカセムを7ラウンドKOに下してIBFジュニアフライ級タイトルを獲得。ソウルオリンピック同期組は後に5名が世界チャンピオンとなったが、誰よりも早い王冠だった。

「あの試合は、キャリアの中で最も厳しいものだった。ファンには簡単な試合だったように受け取られているけれど、ムアンチャイはハードパンチャーだったうえに頑強で、そりゃあ素晴らしい選手だったよ。今でも、彼を尊敬している。
 ムアンチャイはフライ級でも世界王者になって、2階級を制覇したよね。当然の結果だ。明暗を分けたのは、ちょっとした精神力の違いじゃないかな。世界タイトル奪取は、ボクサー生活で最高の幸せを感じた時だなぁ。もう飛び上がったねぇ。でも、いつか王座を獲得するとは分かっていたんだ(笑)。ダニーがコンディションを整えてくれたことも大きな要因だね」

◇   ◇   ◇

 カルバハルは世界チャンピオンとなった後も、防衛戦だけでなく、ノンタイトル戦を挟みながら、90年は8試合、91年は4試合、92年は5試合と、ハイペースで試合をこなす。

「チャンプになったのに防衛戦だけじゃなくノンタイトル戦も入れたのは、試合と試合に間隔を空けたくなかったからさ。オレの場合、その方がシャープな動きが出来たんでね。チューンナップ的な試合を組んだんだよ」

 とはいえ、ジュニアフライ級という軽量級の王者は、世界タイトルマッチであってもなかなか大舞台が用意されない。ファイトマネーも当初は5万ドル、7万ドルといった状態であった。

 そんな彼にWBCチャンピオンとの統一戦が持ち上がる。対戦相手は、2度同タイトルを獲得し、通算9度防衛中のスイッチヒッター、ウンベルト・“チキータ”・ゴンザレス(メキシコ)だった。

「プロモーターからの提案でさ、自分にとってはIBFタイトル7度目の防衛戦だった。オレ自身も、同じクラスで最強は誰か決めたいという希望があったよ」

 1993年3月13日、両者はラスベガス、ヒルトンホテルのアリーナで向かい合う。この時点でのカルバハルの戦績は27戦全勝15KO。一方のゴンザレスが、35勝1敗25KOであった。

 カルバハルはこの統一戦で序盤からペースを握られる。ゴンザレスは身長155センチと小柄ながら、スイッチを繰り返し、テンポのいいフットワークで執拗にカルバハルのボディを攻め立てた。

 第2ラウンド終盤、強烈な左ストレートを顎に喰らったカルバハルは腰からダウン。ボクシングを始めて以来、初めて経験するダウンだった。

 劣勢を挽回しようと必死に反撃を試みるカルバハルだったが、5ラウンド序盤には右フックを浴び、さらに腰が砕けた。

「スイッチに困惑はしなかったけれど、チキータは強打者だった。2度のダウン? 最初のはそうでもなかったけれど、2度目はマジで効いていたね。足がガクガクいっていたよ。オレのボクサー生活でダウンはあの試合だけなんだ。でも、ダメージさえ回復すればクリーンヒットを当て、試合を引っくり返す自信はあった」

 窮地に陥った第5ラウンドを持ち前の闘争本能凌いだカルバハルは、反撃の糸口を接近戦での打ち合いに委ねる。

 第7ラウンド1分29秒、カルハバルはショートの左フックでチャンスを掴む。ゴンザレスがヨロヨロとコーナーまで後退すると、透かさず左右フックの連打を浴びせた。そして、再度左フックを顎に直撃し、ゴンザレスを沈める。

 顔面からキャンバスに倒れ込んでいったゴンザレスは、カウント・テンが数えられた後も、しばらく起き上がる事ができなかった。

「苦しい闘いだったけれど、ああいう内容の勝利を予想していたよ」

画像 カルバハルが王座を統一したこのタイトルマッチは、ヘビー級を凌ぎ、93年度の年間最優秀試合に選ばれた。

 “小さな石の拳”。アイドルであるロベルト・デュランに肖ったニックネームで呼ばれるようになったカルバハルは、スーパースターの仲間入りを果たした。

「確か、チキータとの第一戦のファイトマネーは70万ドルだったと思う。一年8カ月後のリターンマッチで、お互いに100万ドルを超えたんだよ。軽量級だって、いい試合をすれば稼げるんだって、オレたちが扉を開けたと自負している」

 2冠達成後も、無敗のまま順調に勝ち星を重ねたカルバハルは、喜んで再戦の申し出を受け入れた。

「ただ、親父が93年の8月に心臓発作で亡くなったんだ。もっともっと活躍を見せたかっただけに、残念だったね。凄く物静かな紳士だった。そんな人柄が、好きだったな」

 リターンマッチは、前回の反省を活かしたゴンザレスが2-0の判定勝利で雪辱を果たす。

「2戦目のチキータはスタイルを変えた。全く打ち合わずに、アマチュアのようなポイント重視のボクシングに徹した。オレは今でも勝ったと感じているよ。勝利を盗まれ思いだ」

 さらに、9カ月後の94年11月12日、カルバハルとゴンザレスの第3戦がセットされる。この試合は、チャンピオンの母国メキシコで催された。地元の大声援を背に、ゴンザレスは勝つためのボクシングを徹底して貫く。カルバハルは、またしても判定で敗れた。

「3戦目は確かにポイントアウトされた。チキータは、いいアウトボクシングをしたね。オレも捕まえ切れなかった。当時は、臆病者!って思っていたけれど。
 でも、客を沸かせたのはこっちさ。チキータは、オレの強打を恐れてずっと離れて闘っただろう。チャベス(※メキシコで最も人気のある伝説のチャンピオン)なんて、『つまらない、メキシカンのファイトじゃない! 』って腹を立てて6ラウンド終了後に帰ってしまったんだから。
 メキシコのファンだって、打ち合いを望んでいたさ。だから、敵地だというのに場内の声援はオレへの方が大きかった。皆、オレを応援し、逃げるチキータにはブーイングが浴びせられていたんだ」

 その後、カルバハルは96年3月にIBFジュニアフライ級タイトルを奪還し、2度の防衛した。

「3度目の防衛戦には失敗してしまったが、タイトルを失ったファイトだって絶対にオレが勝っていたよ。3ラウンドだか4ラウンドに、クリーンヒットは喰らったけれど、ダメージは無かった。見栄えが悪かったのかな? 負けた覚えは無い」

 そして、99年7月にWBO同級のベルトを手にすると、世界王者のまま引退を決める。

「31と、ちょっと歳をとってきていたし、チャンピオンのまま、トップ選手のまま引退したかったんだ。デュランをはじめ、殿堂入りする名チャンピオンたちが衰えていく姿を見て出した結論だよ。自分自身では、衰えを感じていた訳じゃないけれどね。プロモーターから防衛戦のオファーもあったけれど、断った」

◇   ◇   ◇

 引退後、カルバハルは左腕にTATTOOを入れている。リングを離れてからの生き方を思いあぐねていた時期のことだ。

画像「オレの人生で最も大事なのは、子供たちをきちんと育てていくことだと悟った。で、まずその決意の意味で左腕にインディアン、アステック・デザインを入れたのさ。マスク・オブ・ゴッド。その下に子供達の名を彫ってある。このTATTOOが、自分と16歳の息子、15歳の娘、14歳の息子、11歳の娘を守ってくれているんだ」

 そして、左の薬指にはこの地で有名なコブラ。そして9THストリートで生きて来た証である「9」の文字を、人差し指に入れた。

「9THストリートは、確かに危険地帯だったけれど、そこで生き抜けたことが自信になっている。忘れないようにという思いを込めた。ボクシングでの勝利、リングで稼いだ700万ドル。家族愛、夢を追うことの過酷さ、自分に打ち克つことの尊さ・・・など、オレの人生の全てが詰っている」

 十数秒間、指のTATTOOを見詰めていたカルバハルの目から、突然涙が溢れた。

「オレはクリーンに生きて来たけれど、9THストリートは、やはりタフなエリアだった。父の教えでもあった、“自分を律する”ことが身についていたから、今日まで生きて来られたんだと思う。妙なトラブルには巻き込まれなかった。でも、弟のアンヘルはバー射殺されてしまった・・・・・・。2000年のことだよ」

 カルバハルは、しばし言葉を発することができず、机に顔を伏せて泣きじゃくった。

 18歳上の長兄、ダニーはアマチュアのデビュー前からプロでの引退まで、カルバハルのトレーナーを務めた。リングに上がるカルバハルを、長兄のアシスタントとしてサポートしたのが、5歳下の弟、アンヘルだった。

「あいつのことを思い出すと、今でも本当に辛くなる。この店のタコスが好きで、よく一緒に来たな。アンヘルの分まで生きなきゃと感じる。このTATTOOを見る度に、弟の笑顔も蘇るよ・・・」

 ジュニアフライ級史上、トップとも評される名チャンピオンは、頬を流れ落ちる涙をTATTOOの入った左指でそっと拭った。

『TATTOO BURST』2008年3月号
 BOXER'S ROADより

※都合により誌面掲載時とは別の写真を使用しています。


* * * * * * * * * *
<当時を振り返って・・・>

 カルバハルは、現在、法廷闘争中である。実兄が、元チャンプの貯蓄をすべて使い果たしてしまった。

 カルバハルは酒におぼれ、カムバックして日本のリングに上がりたいと言っていた時期がある。彼もまた“マイノリティーの拳”なのだ。

[2013.3.12 記]


▽バックナンバー
vol.29 テリー・ノリス〜ダイヤモンドのタトゥーと第二の人生
vol.28 レイモン・ブリュースター〜百獣の王になりたいと願った男
vol.27 ケルビン・デイビス〜再起を誓う「リトル・タイソン」
vol.26 ロナルド・ライト〜パウンド・フォー・パウンド
vol.25 コーリー・スピンクス〜サラブレッドの決意
vol.24 ディエゴ・コラレス〜王者の刺青
vol.23以前 トリニダード vs. ホプキンス「もうひとつの“戦場”を制した意志」。/ハメド vs. バレラ「プリンス攻略の鍵は日本人トレーナーにあり」/デラホーヤvsトリニダード 「100グラムの慢心」。/ジャーナリストという名のファイター ホセ・トーレス/ホリフィールド「過ぎゆく季節に」。/レノックス・ルイス独占インタビュー ...... etc.


林 壮一(Soichi Hayashi Sr.)
1969年3月生まれ、埼玉県出身。東京経済大在学中、ジュニア・ライト級でプロボクサーライセンスを取るが、怪我で挫折。週刊誌記者を経て、フリーのノンフィクションライターに。1996年に渡米し、ネヴァダ州リノに在住する。2006年9月、10年に及ぶ取材活動の集大成マイノリティーの拳〜世界チャンピオンの光と闇(新潮社)、2010年11月にはアーロン・プライアーと亀田昭雄の再会を描いた神様のリング(講談社)を刊行した。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
カルバハル たしかNHK-BSで特集があり 録画しました。
今でも時々見ています。キティカセム戦はロープにキティカセムが吹っ飛ばされたシーン見た時はちょっと衝撃的でした。
チキータとの第一戦も凄い打撃戦しびれました。
ねぎトロ巻き
2013/03/13 00:02
まさに「小さな石の拳」でしたね。
[井]
2013/03/13 14:02

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